昭和54年11月08日 朝の御理解



 御理解 第8節
 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」

 如何に子供が可愛い、その中に屑の子があればなお可愛い。ふびんさはいよいよ増してくる。けれどもいくら可愛いと思うただけでは助からん。いかにふびんと思うただけでは、幸の道というものは開けてこない。最後にそういうこれは道理のものだと。子供の中に屑の子がおればそれが可愛いのが親の心であるように、神様もまた不信心者ほど可愛い。だから如何に神様が可愛いと思召しても、ならそれを幸せに導いて下さるということは出来ないのだ。
 それは親が子供をふびんと思うたり可愛いと思う、思うただけじゃどうにも出来ない、という事。だから最後に信心してとおっしゃっとられます。信心しておかげを受けてくれよとあります。今日は私は、大体『愛について』と頂いたんでけれどもならその、まサブタイトルと申しますか、それを頂いたらここの御理解八節でした。だからその御理解八節から、いうなら愛についてという事になると思うんですよね話は。子供が可愛い。これは愛ですね。
 屑の子があればなおふびんさは増す。なお可愛いやはり愛です。神様が私共の上に、氏子信心しておかげを受けてくれよと、信心しておかげを受けてくれなければ、如何に神愛を神様が燃やして下さっても、それが氏子の幸せには繋がらないのだね。信心してくれよ、と。信心しておかげ受けてくれよという事なんです。だからまあ今日の愛について、というのは人が助かる事の愛である。
 祈願詞にね。愛の心を持って人へ伝えていく、というところがあります。だから、それは愛の心を持って人が助かるようにという意味なんです伝えていくと言う事は。だからそこにはね。その愛に力が伴わなければならない。人が助かる程の願いをかけるからには、いうなら修行が伴わなければならない。しっかり信心の帯をしとかなければならないという事なんです。
 今日は戎浦さんのところの、あぁして私は今日初めて行くわけですけれども、ま見事な御建築が出来たと、神様も新たに奉斎申し上げて、奉斎のお祭りが、もう本当にま一生懸命で、昨日からいろんなご準備があっとられます。宮崎からも昨夜遅う着かれました。それがなら、宮崎辺りからまでも、どうしてなら戎浦さんのところのお祭りに見えるか、というと、まあちらのお母さんである、石川のお祖母ちゃんの御信心によって、宮崎に道が開けてきた。
 そのおかげで、いうならば合楽に御縁を頂き、おかげが頂けるようになった。してみると、そのお祖母ちゃんところの、子供の家のいうならお祭りだから、という事になるんです、ね。宮崎の方達の、ま殆ど幹部と言われるような方達は、必ずお初穂の中に秋永文男先生というお届けが必ずあります。どういう訳秋永文男先生だけが、まひいきされるとじゃろうかと言うと、ひいきというのじゃない。
 秋永文男先生のおかげで、今日宮崎に道が開けるその元を取って下さった方だから、という事らしいんです。そげな意味は書いちゃない。けれども必ず秋永文男先生秋永文男先生と、もう参ってくる人が全部、秋永文男先生のお届けをするんです。本当に人が助かる、という事はおかげで助かると、その助かった人達がそういうような思いで、いうならば祈りが返せれる、ね。そこにいよいよ信心は、いわゆる手厚い信心になってくるのじゃないでしょうかね。
 文男先生は戎浦の奥さんにお話をして、お導きをさして頂いたのが始まり、それが石川のお祖母ちゃんに知られる事になり,宮崎に帰られては、もうそれこそ合楽の信心の有り難い事を説いて廻られる。百名からお導きが出来てる。ね。ならその元をいうなら秋永文男先生という事になる。一人がおかげを受けた為に、千人も万人もの者がおかげを受けるようになるとこう。
 千人も万人もの者に、いちいちこうやってお話をして廻る、というわけじゃないけれども、一人が助かる事によって次の人が助かる、次の人が助かって、また助かりが広がっていくというように。いわゆる文男先生の、いうならばお導きというかお話の中に愛の心が籠もっておったんだと、いう事になるのじゃないでしょうか。しかもそれはただ愛、普通で言う愛ではない。導いた人が助かる事の為には、それだけの修行をしておる、いうならば信心の帯をしっかり締めておる。
 私はあのう、今日私が言う愛についてというのは、人が助かる程しの愛という事。ただ人を愛するとね。いう例えば犬猫でも大変可愛がる人があります。それもやはり愛です。ね。けれども只それは猫可愛がりの愛であります。本当の愛じゃない。昨日大川から一家中で御礼に出て来られた方がある。いつも前の日に馬が危篤状態になっておるから、という事であった。獣医の方が見えていわゆる首捻られる程しにま重体であった。
 もう夕方にはいよいよもう難しかろうごたったから、またその獣医さんに来てもらう、電話をかけたけども、もう行ったっちゃ同じこっですがち言うてから来なさらんやった。もう言わばさじを投げられた。いよいよ御神米とお神酒さんを馬に頂かせた。それでももう言わば駄目なようであった。家族中の者が、まその死を見取るという為に心配して馬小屋に集まって、御祈念をなさる方もあったでしょう。
 何回も参って来た方達があったから。それでもういよいよ難しかろうごたるから、明くる日八十四になるお祖母さんがおられます、も本当に馬でもね、もう家族の者家族の一員、だから息を引き取る時には家族の者も皆、いうなら枕元ですね。馬の枕元、馬の倒れとるところへ行って見取ってやろう。本当に可愛そうな事じゃけれども、と言うてその馬小屋の前に立たれたのと、馬が立ち上がったのが一緒であった。そして何でもなかったようにしておる。
 もうこれで大丈夫ばいと言うて、もそれこそ一家中で御礼に出て見えました。私はその時お祖母ちゃんに申しました。成程神様のおかげだけれども。結局あなたが馬に対する愛情しかも家族の者と同じだという、いうならその牛馬に至るまでとという教祖が仰る、ただ願うだけではなくて家族の一員と言った様な、その思いがその愛が馬を助けた事になったのでしょうねと言うて話た事です。
 もう昨日は、も本当に拝む神様を頂きたいと言うて、天地書附の額がありますのを買うて帰られました。これからはこれを対象にして拝ましてもらおう。拝む道も分からんけれども、祝詞の本も買わせて頂いて拝ましてもらうと言うてま帰られましたが、愛というのはいうなら、そういう馬牛にかけられる愛でもです。家族の一員と言う様な馬に対する、その思い方が本当の愛であり、馬を救い助ける事になったのじゃないかと思います。ただ可愛そうなこっちゃある、というだけではない。
 人間が自分の子供が可愛いのは誰でも可愛い、中に屑の子がおりゃなお可愛い不憫が増す。けれどもこれは誰でもの事であって、本当の愛ではない。そういう愛が赤の他人の誰彼の上にでも、いや赤の他人ではない、牛馬の上にでも使えられる時に、初めて本当の愛という事ではないかと、愛についてとはそういうふうに私は感じました。そしてこの御理解八節を頂きました。
 そこにです一人が本当に助かれば、それこそ八の字である。広がりに広がる。文男先生の信心によって、それが戎浦さん石川のお祖母ちゃんに伝わって行ってね。それこそこれから、千人も万人も助かるような働きになるかも知れません、それにはいうならば、その根本に、ただ合楽の話をしたというだけではなくて、文男先生は大体そういうところがありますもんね。
 もう願うたなら、自分は一かたき二かたき食べんなんでも、ま修行のしるし、といったような若い時からそうでした。そういう所がある。そこに文男先生の力があるわけです。いうなら愛の力があるわけです。それがそういうおかげになり、いうならば、ま今日仕えられる盛大賑やかであろうと思われるそのお祭りも、そういうところから頂けて来る事になったのです。
 また今日のお祭りを頂いて、また一段と信心を進めて行かれ、また新たな来賓の方達もあるそうですから、またそれを見習うて、神習うて行かれる方達があるかも知れない程しの内容を持ったお祭りが、今日は戎浦さんのところで、ま行なわれる訳でございます。お互いの信心を振り替えって見て、自分のただいうなら凡情的愛では駄目だという事。ただ人に伝えさえすればよいと言うのではない、それには自分が一修行してからでも、その人が助かって下さる事の為にという、その愛でなからなければならない。
 それは牛馬でも、自分の家族の一員と言った様な愛があって初めて、医者にさじを投げられた馬が助かったような事になると思うんです。ただ愛と申しますけれども、その愛にもやはり、力の裏づけがなからなければならない。修行の裏付けがなからなければならない。愛を語る。信心によっての愛を語るなら、まず信心の自分の帯を締めておいてからの愛であり、語りでなからなければいけないという事でございますね。
   どうぞ。